日本語ラップはどこから来たのか?
とりあえず『何から書いていこかな・・・』と悩んだんだけれど、
まずは”日本語ラップがどういった歴史を辿ってきたのか?”
ということについて”知っている知識の範囲内”で紹介しようと思います。
始まりは1970年代のニューヨークはブロンクス。
当時は本当にギャング達が抗争の解決手段として生まれた文化という側面もあったり、、っと
グラフィティやDJ、ラップにダンスと言い出せばキリがないので、その辺りは省略しつつ日本に入って来てからの動きから遡っていきましょう。
いとうせいこう氏と日本のHIPHOP関係
引用元:http://seikofes.jp/
今の10代や20代の人にはあまり馴染みのない人物であろういとうせいこう氏。
フリースタイルダンジョンではお馴染みのメンツになっているけど、それには明確な理由があって、1985年頃に彼が参加したアルバム『業界くん物語』の中の参加者には明確にDJというメンバーがいる。
実は、この少し前にはそういった文化を日本に持ち込んでいる人達はいたんだけど、それを矢面で体現したと言われているのがいとうせいこう氏だったりするわけで。
そこから少しずつラップが日本語で表現されてくようになるんだけれど、当初はラップと言ってもレゲエ風だったりHIPHOP風だったりとかしてるから、ブラック・ミュージックという大きな括りで動いていたイメージだね。
まだ現代みたいなカッコイイフローがあった訳じゃないし、どちらかというとポップカルチャーだった日本語ラップ。
だけど、ここから90年代初頭までの約5年。
日本語ラップはドンドン進化していくことになる。
スチャダラパーのメジャー進出をキッカケに!
1991年。
当時、既にHIPHOPカルチャーにグループとしてドンドン参加していたスチャダラパー。
彼らのセカンド・アルバムにあたる『タワーリングナンセンス』がメジャーリリースされることになった。
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その後、1994年には後にKREVAもカヴァーしたオザケンとスチャダラパーの名曲『今夜はブギー・バック』で一気に日本語ラップは世に広まった。
同年にはEAST END×YURIが『DA・YO・NE』をリリース。
ラジオの口コミからじわじわと広がったこの曲はオリコンチャートにも食い込んで、彼らは結果的に紅白歌合戦にまで出場することになった。
多くの人が記憶にあるのはこの『DA・YO・NE』くらいかな。地上波への出演もかなり多かった。
こちらはGoosehouseによるYou Tubeでのカバーバージョン▼
こんな感じでなんかリズムに乗って喋る?歌う?といった感じの日本語ラップは世に広まっていったんだけれど、、、
この裏というか同時期には既にキングギドラやBUDDHA BRAND、RHYMESTERやカミナリカゾク、名曲「証言」をリリースしたLAMP EYEといった今のHIPHOPシーンでは既にレジェンドになってるアーティスト達が一同に決起することになる。
そう。伝説のさんぴんCAMPの開催。
この「さんぴんCAMP」から日本語ラップはハードコアとマスっぽい間柄で少しビーフに似た状態にも入るんだけど、それはまた次回にしよう。
それではまた!
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