わっさーーー。
前回、【日本語ラップの歴史】vol.2.5では現状で最も流行りつつあるラップスタイルの1つ。
フリースタイルBATTLEの元祖とも言えるB-BOY PARKやKREVAの3連覇について紹介したけれど、このvol.3では少し時系列が交わってくるので注意してほしい。
というのも、KREVAがMCBATTLEで初優勝したのが1999年。
そしてDragon Ashがジブさんやラッパ我リヤと一気に活躍したのも同年である1999年及び2000年初頭だからだ。
そしてまた少し話は遡るが、さんぴんCAMP開催が1996年。
しかし、同年にはジブさん、K DUB SHINE、DJ OASISで組まれたキングギドラは活動を休止することになる。
奇しくもこの同年にDragon Ashが結成、そしてその前後でキックザカンクルーも結成されていたりする。
日本語ラップが爆発的に広がったDragon Ashの活躍
引用元:http://www.syncmusic.jp
Dragon Ashは前述の通り1996年に結成されたミクスチャーバンド。
降谷建志(通称KJ)を中心に、ダンサー、DJなどを取り入れるという異色のパフォーマンスで人気を獲得していくことになる。
メジャー4枚目のシングルとなった『Let yourself go,Let myself go』が1999年3月に発売されると、その後怒涛の勢いでラップアーティストとの共演をしていくことになる。
1999年5月にはZEEBRAとACOを迎えた5作目の『Grateful Days』と6作目となる『I LOVE HIP HOP』を同時発売し、『Grateful Days』は当時バンド初のオリコン1位を獲得、HIPHOPやラップファンのみならず、音楽業界に多大な影響を与えた。
街中には黒い車でKJのようなファッションをする人も多く現れ、ある種の社会現象だった記憶が未だに残っている。
ZEEBRAのフレーズである
俺は東京生まれ HIPHOP育ち
はあまりにも有名なパンチラインである。
その後もいわゆる”Dragon Ashブーム”は終わることなく2000年にはラッパ我リヤを迎えた『DEEP IMPACT』でも絶大な支持を得た。
しかし、この直後にHIPHOP業界からは目の仇にされるビーフの嵐が巻き起こる。
非難が集中した『Summer Tribe』
同年8月にリリースされた『Summer Tribe』のPVや、フロー、声のアクセントまでもが完全にZEEBRAを意識していた楽曲作品であった事から、2000年から2002年前後にかけて多数のラッパーからいわゆるDIS曲を発表される事態になった。
キングギドラの復活と『公開処刑』
Dragon AshはDISを受けた2000年には9作目のシングルをリリースしている。
しかし、そこから2002年になるまで事実上の活動停止状態が続いていた。
※9作目『静かな日々の階段を』が2000年の11月、10作目の『Life goes on 』がリリースされたのは2002年の1月である※
そして、キングギドラが2002年10月にリリースしたアルバム『最終兵器』で復活を果たし、その中の楽曲の1つである『公開処刑』で共演したZEEBRAに名指しでDISを受けることになる。
覚悟決めるのは お前だKJ
お前のグレイトフルデイズも今日まで
出典:キングギドラ『公開処刑』より
ついでに言うと、
この曲の中で当時既に人気グループになっていたキックザカンクルーをK DUB SHINEがDISしている。
あと芸能系の聴くと 感狂う リリック辛い 屁理屈ライム
出典:キングギドラ『公開処刑』より
※キックとカンクルーを掛けている※
これによってハードコアなHEADSとHIPHOPファンは多いに盛り上がった。
さらに言えば
Dragon Ashにとっては代表曲である『Grateful Days』は色々な意味での代表曲になってしまったという経緯に繋がる。
ただし数年後にラジオやインタビューの中でDragon Ashという存在がいかにHIPHOPに貢献したかという事はジブさん自身が語っている。
また同時期にアルバムのスキットでKJをDISしたDABOとは2010年に共演もしている。
DABO 「AZS feat. Kj」
この曲は販売元であるEMI Record JAPANのYOUTUBE公式チャンネルで公開されてます
※DABOは過去に自身のアルバムの中で『授賞式』というスキットでDISを行っている※
この共演についてDABOは自らのブログで理由を語っている。
以下、一部抜粋
この曲が生まれる経緯を話していこうか。始まりはLIL’ WAYNEの”CARTER 3″に収録されている”TIE MY HANDS”という曲だった。
~中略~
こういうタッチのもの、アルバムで一曲やりてーな。生ギターの音って日本人の耳にも馴染みやすいし、そういう静かなオケでしか言えないシリアスなこと、ライムしてーな。まぁ切り口はどうあれ、広い意味ラブソングにはなるだろーな。そしたらギターと歌できるひと呼んでサビやってほしいな。誰だろ?ギターが弾けて歌が歌えるアーティスト…まぁどー考えても異ジャンルからだわな。バンドサウンドのひとたちか。うーーーん…思いつかないこたないけど…しっくりこねーな!俺とやってもなんかわざとらしい。並んでる絵面がお仕事っぽいんだよなー、俺がリスナーだったらきっとちょい鼻につく。それじゃ意味がねーんだよな。以外だけど以外じゃない、しっくりくる話の分かる世代のギターマン……あ。一人いた。一人だけいた!
それがKJだった。まったく…こんなこと思いつくから俺は自分で自分がスリリングでたまんねんだ!あ、もー絶対やる。バッチリじゃん!俺彼と曲やりたい!俺の村の奴らじゃこんなこと誰も思いつくわけがない。これは俺に”しか”出来ない、絶対に。OK、俺は触れるぜそこに。その痛みに。みんながとっくに過去に押しやってしまった記憶に俺は触れよう。そして新しい時代の幕開けを高らかに曲をもって宣言しよう。このコラボが日本のヒップホップ・ロック双方に取っていいことだと俺は信じる。信じたい。
かなり濃い解説をDABO自身がしてくれているので
興味のある人はリンク先でチェックしてみてほしい。
新しいラップのカタチ
ここでは主にDragon Ashの活躍やビーフ事件について歴史として書いてはきたけれど、実際にこの2000年周辺は色々なラップが生まれている。
KJに拾い上げられたリップスライムや前述したキックザカンクルーなどもかなりのヒットを飛ばしている期間だからね。
リップスライムはよくポップな印象をもたれるけど、彼らはそれに対して自分達のスタイルを楽しむようなラップが印象的だった。この後数年はメジャーではリップスライムはすごい人気グループに成長するしね。
キックザカンクルーもインディーズで出した『エルニーニョ』なんかを聴くと、その時の考え方なんかが、リリックにされていて感慨深くなる。
キックザカンクルーは2003年末の『脳内バケーション』で一度活動を休止。
もちろんアングラでも動きは沢山あった。
1998年にはNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDが『REQUIEM』を発表し、2000年10月には初のフルアルバムとなる『NITRO MICROPHONE UNDERGROUND』が即完売。
あまりの売れ行きにデフジャムジャパンから12月にリパッケージされた本作は15万枚を超える売上を作った。
同年にはアメリカのヒップホップマガジン「SOURCE」に取り上げられるなど、まさしく現場叩き上げのラップ集団だと言えるだろう。
2003年に限定販売されたシングル『NITRICH/SPARK DA L』も完売御礼のインディーズチャートウィークリー1位に。年間でも21位に食い込んでいる。
他にも多数のラッパーが幅広く活躍し始めたこれまた日本語ラップ第2の転換期ではあるけれど、これ以上書くと腱鞘炎になりそうだから、この辺りで区切りをつけようと思う(苦笑
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